今月の一冊は、故郷にあこがれながらも故郷を憎む。そんな人間の両面を描いたアメリカ文学『八月の光』(新潮社)
今月の1冊『八月の光』(新潮社)
書籍:『八月の光』
(フォークナー,加島 祥造 (翻訳) / 新潮社)
書籍詳細URL:https://www.honzuki.jp/book/28666/
選書理由
アメリカ大統領選もあり、なんだか最近アメリカ文学への関心が向いていることもあって選んだ『八月の光』。予想よりもずっとポリフォニー的な小説で、さまざまな主題がぜんぶ入ってる重箱弁当のような物語でした。
ブックレビュー
「自分は孤独から逃れようとしているのだ、自分自身から逃げようとしているのではない、と彼は思いこんでいた。それでいてどこにいようと落ち着けなかった。しかし道路は常に空ろに、気まぐれな気分と形をみせて走りつづけ――そこに彼が自身の姿を見たとすればそれは数知れぬ流浪の亡霊たちにまじった自分であっただろう、口もきかず、流浪の運命にとりつかれて、常にしおれたり元気づいたりする運命のまにまに捨てばちの勇気に駆られている亡霊たちの一人であったのだ。彼は三十三歳になっていた。 (『八月の光』フォークナー著、加島祥造訳 /新潮文庫p295)
故郷って呪いのことだよな、としばしば思う。
というより、呪いにかけられている(ほどに縛られている)からこそ、そこを故郷と呼べるのだろう。
そこから逃れようと、逃れようとして、だけど逃れきれない場所のこと。それが故郷だ。呪いを解こう、解こうとすればするほど、故郷は根本的なところで人を縛る。もちろんそれはノスタルジーという名の感傷に変わるときもあるけれど、でも同時に、じゃあ「故郷じゃない場所にいる自分」は、逆にいったい何者なんだ? とうつろな気分になったりもするだろう。
さらに言えば、故郷をしっかりと心のなかに持てる人はいい。だけど、故郷に確固たるなにかを見いだせなかった人――故郷を持たない人は、自分のアイデンティティを、いったい何に置けばいいのか? と不安になることがある。
呪いは、かけられても地獄、かけられなくても地獄、そういうものなのかもしれない。
フォークナーの小説『八月の光』は、さまざまなテーマが織り込まれていて――たとえば1930年代のアメリカ南部の差別意識、あるいはキリスト教的価値観、または自分が逃れようのない人種や血の問題――、いろいろな読み方ができる小説だな、と思うけれど。私はこの小説を、「故郷から離れざるを得なかった」ふたりの旅人――リーナとジョー・クリスマスの物語として読んだ。
リーナもジョーも、作中、故郷からずっと離れて旅をする。だけど二人の故郷に対する姿勢は、表裏をなすように正反対なのだ。
リーナは妊娠しているのだが、子どもの父親を追いかけて、故郷のアラバマを離れる。『八月の光』という小説は、彼女の『あたしアラバマからやってきたんだわ。アラバマからずっと歩いて。ずいぶん遠くまで来たのねえ』という言葉から始まるのだ。
もうひとりの主人公ジョー・クリスマスは、故郷を離れてから行くあてもなく放浪するキャラクターだ。故郷でとある事件を起こしてしまったから帰れないという事情もあるのだが、同時に、彼は孤児であり、同時に黒人と白人のミックスであることから「どこにも帰属できない」ことに葛藤する。彼は、自分の故郷がわからないのである。
物語は、ジョーの周りで起こる殺人事件の真相や、リーナと夫の関係を追いかけながら進んでゆく。
寂しさ、というものの種類はいくつかあるだろうけれど、自分の帰属できる場所がない、と思うことは、人間が寂しさを感じる瞬間のひとつらしい。
自分は何者なのか、と考える時、私たちはどうしても、自分がどこに所属しているか、という問いにすりかえやすい。
だからこそ自分の故郷に人は縛られるし、そこに自分自身を見出してしまうのだと思う。 ジョー・クリスマスは、社会のなかに自分の故郷を見出すことができない。故郷をいつも探しながら、それがないことに落胆する。しかし一方で、リーナは、妊娠中にもかかわらず、故郷ではない遠いところへ向かおうとする。故郷に縛られることを拒否するのである。故郷にいれば安全だけど、そこにとどまらず、リーナは旅を続ける。「行けるところまで行こう」と決意する。
ジョーとリーナは、はたしてまったく別のキャラクターだろうか? 私にはそうは思えない。私たちの、「故郷」というもの(あるいは私たちを縛るコミュニティ的な存在)に対する二つの、矛盾する、だけど確実に両立している態度を描いているように思えるのだ。 私たちは、自分がどこにも属せないと、不安で、苛立ち、寂しさを覚える。だけど同時に、どこか一か所に縛られると、やっぱりどこかへ行きたい、自由になりたい、と願う。 私たちは故郷にあこがれながらも故郷を憎む。
それは矛盾しているようだけど、どちらも人間の愚かさでありたくましさでもあると思う。 『八月の光』は、そんな人間の両面を描いた作品なのだ。
ちなみに作者のフォークナーも、生涯自分の故郷ミシシッピを舞台に物語を綴っている。執拗に彼は、小説の舞台を故郷に設定し続ける。彼もまた、故郷に縛られたひとりの人間だったのかな、なんて思う。
故郷から自由な人間なんていない。だけどだからこそ自由になりたいと願うし、同時に、帰りたい、とも願ってしまう。だって、寂しいじゃない。
この本を読んだ人が次に読むべき本
書籍:『ホテル・ニューハンプシャー〈上〉〈下〉』
(ジョンアーヴィング / 新潮社)
書籍詳細URL:https://www.honzuki.jp/book/89833/
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書籍:『フラニーとズーイ』
(ヘミングウェイ , 高見浩(翻訳) / 新潮社)
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私の好きなアメリカ文学、その2。自分で書いててなるほどと思ったのだけど、アメリカ文学ってすべからく「寂しがり屋の文学」なのかもしれない。イギリス文学とかフランス文学のほうがもっと寂しさに耐性があるように見える。サリンジャーは孤独を愛するのに寂しがり屋な作者だと思ってます。
Kaho's note ―日々のことなど
アメリカ大統領選があって、いろいろと現代アメリカについて解説した記事がインターネットに出ていたので、しばらく読んでました。おかげでアメリカ文学が面白い。しばらくアメリカ文学ブームが私の中に来そうな気がします。アメリカの地方によっても文学の特色がちがうのが面白いですよね。
三宅香帆さんが選んだ1冊は、本が好き!月間ランキングから選出いただいています。
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